この中に黄瀬が隠れています
この痛バで東京にもいったし、、
絵はこれしかかいたことないけど、、
本当に大好き!
こっちはまゆさんのチキン南蛮!
飯テロでした✌(‘ω’)
あと他にも借りたんだけど
黄瀬でカワイイ私に
先月、お盆(こちらでは旧盆です)に家の宮原家に親戚が『仏様まいり』に来られました。
椎葉の源一氏の弟が継いだ深水家の長男の系(長男の方は教員をしていたので、沢山の農地を持った『お堂をお祀りの本家』は次男の方が継ぎました)のおじ(私の父のふた従弟)夫婦も『仏様まいり』に来られました。
深水のおじのお母さんは球磨郡五木村の”旦那衆”と呼ばれる家(地頭家)の一軒「尾方家」から深水家に嫁いで来られています。
深水のおじのお母さん(私は子供の頃から●●おばさんと呼んでいました)は、綺麗な顔立ちをされていて、さらにとても優しい方でした。
亡くなられましたが、おばさんは、私を、子供の頃から、可愛がって下さいました。
(子供の時に私の父と母が離婚して、父の仕事の都合上、球磨の祖母に預けられる事になった私を不憫に感じて下さっていたのだと思います)
以前ブログにアップしていた深水家の写真の前列、メガネの男性の右隣に座っている若い女性が●●おばさんです。
私が、「平河氏」を調べるに辺り、家の「宮原家」との関係、さらに、親戚関係の先祖どうしの繋がりに「謎」が隠されているのでは?と推測して、親戚関係の先祖様について調べている事を昨年知った「深水のおじ」は、大変喜んでくれていました。
お盆に家におじが来られた際も
「自分も出来る事があったら協力するから!」と言ってくれました。
その際に、おじから聞いた事は
①曾祖母の実家の深水家は後世では「藤原氏」(相良氏族)を名乗っていたが、実は、先祖は本姓「源」、すなわち源氏であった事。
(おそらく曾祖母の実家の先祖である「本姓”源”の某方」が相良氏より相良氏族の”深水氏”の名を賜って、”深水”の姓を継いだと推測されます)
②おじのお母さんの実家である「五木村の檀那衆”尾方家”」は、代々『壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人の系である』と伝わってきた事。
③おじの両親の結婚の際に「五木」の方の方々や「旧岡原村」の家の方の親戚は『平家から源氏に嫁いだ』と言われていた事。(皆、和やかに笑っていたそうです・・・)
(おじは、遡れば、家の両親は敵同士だった!とこれまた、笑っていました・・・)
④おじのお母さんの妹の方の嫁ぎ先は、「尾方家」と同じく、
「五木村の檀那衆”土屋家”」である事。
等となります。
※後日、深水のおじ夫婦が、五木村の土屋家のお墓参りに行った際に「土屋家」の由緒と家紋の写真を撮って、私にメールで送ってくれました。
土屋家に嫁がれた、深水のおじの母(五木村 尾方家の娘)の妹の方は、私が子供の頃、何度もお会いしています。
私の祖母が亡くなるまで、家の宮原家には、深水家の先代・おば・と一緒に、頻繁に遊びに来られていました。(^’^)
土屋家の由緒書き
土屋家の家紋 九曜紋 でした。
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①曾祖母の実家の深水家は後世では「藤原氏」(相良氏族)を名乗っていたが、実は、先祖は本姓「源」、すなわち源氏であった事。
この話は、私も初めて聞いて、大変驚いたのですが、祖母の深水家の先祖は相良藩士分限帳(江戸時代)で確認する事が出来て、先祖の通称に「源」がついている事と、さらに、明治以降の深水家の子供達(男性)の名に「源」の文字が続いている事で、なんとなく納得しました。
ただ・・・
その元は本姓「源」であった「深水家」から「平川家」に曾祖母は嫁いで来た訳ですが
この「平川家」は明治初頭に『平家落人伝説で有名な椎葉村の大河内矢立を出自の地』とする『矢立家』から高祖父が「平川家」を継ぐ為に「養子」に入っているので、かなり”ややこしい”関係となります(p_-)
この「平川家」から、椎葉の源一おじが継いだ椎葉家に私の祖母の姉(平川家の娘)が
「椎葉家」を継ぐ為に養女に入りました。
もちろん、「椎葉家」の先祖の出自の地は『平家落人伝説で有名な椎葉村』です。
椎葉家を継いだ私の祖母の姉(平川家の娘)の婿となられた方の実家は
宮司家「尾方家」です。
熊本県神社記に記載の古い社家略系図 人吉・球磨地区神職家系図 にもその系が載る「家」です。
系図には
本姓 大神 氏 尾方 とあり
初代が緒方太郎右衛門。 代々「惟」の通字、「清」の通字を持ち、現在、15代目となります。
今年に入り、日本遺産に新たに追加された、球磨郡あさぎり町の「岡留熊野座神社」の代々宮司家であり、こちらの「尾方家」からは、椎葉家を継いだ私の祖母の姉の婿となった方だけでなく・・・・
椎葉のおじの妻もこちらの「尾方家」から嫁いで来られています。
②おじのお母さんの実家である「五木村の檀那衆”尾方家”」は、代々『壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人の系である』と伝わってきた事。
この話は、私も薄々気が付いてはいたのですが、あらためて聞くと、やはりな~(p_-)と・・・
しかし、親戚は皆、知っていたので、ちゃんと理解していなかったのは私だけだったようです・・
深水のおじのお母さんの実家の「尾方家」は五木村内でも、お隣の”五家荘”との境界となる山々を所有する「家」でもあります。
ただ、ここまで書いてきたように・・・
家の親戚関係は、平安時代末期まで遡るとおそらく「敵同士」であった可能性が非常に高い「系」の姻戚関係が何重
重なっているのはいったい「何故」だろう?????と。
「椎葉村」「五木村」「五家荘」といずれも、”平家落人伝説”が継承されてきた「土地」
です。
この”平安時代末期まで遡るとおそらく「敵同士」であった”関係に、
さらに繋がっているのが家の”宮原家”です。
『平家落人伝説で有名な椎葉村の大河内矢立を出自の地』とする『矢立家』から高祖父が「平川家」を継ぐ為に「養子」に入った「平川家」の娘である、私の祖母が家の宮原家に嫁いできました。
家の宮原家を含む、「宮原の一族」の先祖は・・・
橘次「公業(公成)」。父が橘公長。兄は橘太「公忠」という方です。
橘次公業(公成)の子供「与一 公員」(11番目の子供 橘公員)が父より肥後国球磨郡久米郷を譲られ、その子「公綱」と相伝。
「橘姓 宮原氏の祖」・・・「公綱」の子「公資」は、肥後国の氷川宮原に住して「宮原」を名乗りました。
「宮原氏」は南北朝時代に二系に分かれています。
ウィキペディアより 橘公業
橘 公業(たちばな の きみなり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の橘氏の武将。公成とも表記される。橘公長の次男であるため通称を橘次といった。法名を公蓮。弓の名手であったと伝えられている。兄は公忠。小鹿島公業とも。
元々平知盛の家人であった父に従い、治承四年(1180年)に平家を見限って源氏の麾下に入る。奥州合戦の論功で出羽国小鹿島(現秋田県男鹿市)の地頭に補された。
文治5年(1189年)に起きた大河兼任の乱では敵前逃亡するなど一時は源頼朝の不興を買うが、結果として援軍を待ってから敵に当たった行為が適切であったとの評価を得、乱後も小鹿島の所領を維持したほか、加えて出羽国秋田郡(現秋田県南秋田郡、潟上市、秋田市)を得た。
承元3年(1209年)12月、御家人の美作朝親の妻と密通していたことから、朝親との間で合戦となり掛ける事態となり、実朝の命を受けた北条時房の仲介により事なきを得るという騒ぎにまで発展している。
承久3年(1221年)、長門国守護となる。
嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国を中心に広がることとなり、かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。
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上記の記述にある
※本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ・・・
この肥後国球磨郡久米郷旧宮原村に住んでいるのが私「宮原」でございます(..)
橘公業は源義経に付き、兄の橘公忠は源範頼に付いて、壇ノ浦で平家の方々と戦っています。
源義経・源範頼は源頼朝の弟の方々です。
さらに父の橘公長は
橘公長 ウィキペディアより
橘 公長(たちばな の きみなが)は平安時代末期の武士。官職は右馬允。
公長の出自は明らかでないが、大きく分けて二つの説が存在する。一つは天慶の乱で藤原純友を討伐した橘遠保(越智氏一族の伊予橘氏当主)の子孫とする説で、遠保から公長へとつなげる系図もある。もう一つは中央貴族橘氏の子孫とするもので、参議・橘好古の孫である橘則光の子・季通の玄孫とされる。
弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった際、頼朝の祖父・源為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた事から、公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという。なお、実際には片切景重(原文「片桐」)は平治の乱(平治元年(1159年))で討ち死に、為義はそれ以前の保元の乱(保元元年(1156年))の直後に刑死していることから、原因となった喧嘩は治承4年(1180年)より相当前に発生したものと考えられる。
「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。
その後源義経の下で戦い、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦い後、捕虜となった平家の総帥・平宗盛の処刑を担当し、その事と平重衡の最期について鎌倉の頼朝に報告した。『平家物語』「大臣殿被斬」によると、世の人々は公長がかつて平家の家人であったことを忘れておらず、その変わり身に多くの批判を浴びせたという。
子孫は肥前国に広がり、次男の公業が一時所領とした小鹿島(現秋田県男鹿市)の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。
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宮原の一族の先祖・・・・・・
※元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清(小笠原 長清)の仲介で源頼朝の麾下に入る。
※後源義経の下で戦い、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦い後、捕虜となった平家の総帥・平宗盛の処刑を担当し、その事と平重衡の最期について鎌倉の頼朝に報告した。
私は・・ずっと、何故?橘公長は平家の総帥・平宗盛、この方の処刑を担当する事になったのか?
源頼朝と言う方は、何故?そのような役目を、80歳以上の高齢であった橘公長に負わせたのか・・・・とても知りたかったのですが・・・
最近になってやっと一つの事が解りました。
先に書いた
『宮原氏は南北朝時代に二系に分かれています。』
この二系の内の”1系”にあたる、熊本県八代郡旧宮原町の宮原城城主、「宮原公忠」の直系にあたる方「宮原様」が「宮原氏」について大変詳しくお調べになられていて
ありがたい事に、こちらの「宮原様」から沢山の資料を頂いています。
その資料の中にあった「秋田と橘
氏を御研究された ある御方の論文」(詳しくは記する事が出来ません。申し訳ございません)の中に
※平家の総帥・平宗盛の処刑を橘公長に命じた人物は「源義経」であった。
京都目前の近江篠原において「源義経」より命令が下った。
との記述がありました。
壇ノ浦の戦いの後、橘公業(公成)は、「源義経」より先に鎌倉に戻っています。
「源義経」はウィキペディアの記述では
元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。
一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。
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とありますが、実はこの後
先に鎌倉に戻っていた橘公長・橘公業(公成)親子に対し、源頼朝は「源義経に付くように」と命令を下しているのです。
命に従い「源義経」に合流する為に京都に向かった、橘公長・橘公業(公成)親子に対し
「源義経」は 京都目前の近江篠原において平家の総帥・平宗盛の処刑担当の命令を下しました・・・・・
この前後の話がウィキペディアに詳しく記されています。
ウィキペディア 「源義経」より
結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。 このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男・景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父・源行家追討を要請した。
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※気が付いた事
源頼朝は「源義経」に不信感を持ち、鎌倉に入る事を禁じた。
その「源義経」に付くようにと、先に鎌倉に戻っていた橘公長・橘公業(公成)親子に対し「源頼朝」は命令を下した。
「源義経」に合流する為に京都に向かった、橘公長・橘公業(公成)親子に対し
「源義経」は 京都目前の近江篠原において平家の総帥・平宗盛の処刑担当の命令を下す・・・
源義経の家臣は数多くあるのに、「平知盛」この方の元家臣であった橘公長に、
「平知盛」の兄であった平家の総帥・平宗盛の処刑を担当するように「源義経」は命令を下した。
あくまでも推測ですが宮原の一族の先祖「橘公長」は源頼朝と源義経の兄弟の確執に巻き込まれたのでは・・・・
さらに・・もう一つの推測ですが
「源義経」は・・・・橘公長・公業親子に対して・・何かを試したのでは?と・・・・
「何か」?とは・・・・深い霧の中のようで、今はまだ解りませんが・・・・
この後、橘公長は平家の総帥・平宗盛の最期、さらに平重衡の最期について鎌倉の頼朝に報告をしました。
橘公長・橘公業(公成)親子は、「源義経」とは別れ、鎌倉に残りました・・・・・
源頼朝と源義経の確執は決定的な物となります。
ウィキペディアより
頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。
義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。
藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。
頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。
この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。
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「源義経」を匿った藤原泰衡。
ここから・・・奥州合戦へと突入していく・・・・・・
宮原の一族の先祖「橘公業」は奥州合戦の論功で出羽国小鹿島(現秋田県男鹿市)の地頭に補された・・・・
しかし・・・
橘太公忠(橘公業の兄 橘公忠)は源頼朝の弟の方である「源範頼」に付いたまま、源頼朝と源範頼の兄弟の確執に巻き込まれ、建久4年(1193年)8月源範頼の配流先の伊豆国、浜の館にて討たれました。
ちなみに< /p>
宮原の一族の先祖「橘公業」の後妻となられた方は
鎌倉幕府御家人・梶原景時の次男「梶原 景高」の娘であった方です。
梶原景時の孫娘であったこの方を母とする「橘公員」が
球磨郡久米郷を父より譲られています。
ここまで、宮原の一族の先祖について書かせて頂きました。(..)
しかし・・・・最初の方で書いたように
家の親戚関係は、平安時代末期まで遡るとおそらく「敵同士」であった可能性が非常に高い「系」の姻戚関係が何重も重なっているのはいったい「何故」だろう?????と。
「椎葉村」「五木村」「五家荘」といずれも、”平家落人伝説”が継承されてきた「土地」です。
実は、家の宮原家の親戚には「椎葉家」だけではなく複数の「那須家」もあります・・・・
椎葉のおじは、私に
「系は違っても、家の親戚関係”椎葉家・深水家・平川家・宮原家”は堅い絆で結ばれている」と言います。
それを裏付けるかのように
家の親戚一族「椎葉家・深水家・平川家・宮原家」は家紋まで一緒に統一?しています。
『丸に剣方喰』の家紋です。
しかし・・おそらく、この4軒は、以前はもちろん「別の家紋」を使用していたと思われます。
いつの頃に「家紋を一緒にした」のかは不明ですが、今、親戚は、其々の家が使用していた元の「家紋」が残っていないか?蔵などを調査中です(^’^)
ちなみに、堅い絆?の「4軒」以外の親戚が使用している家紋がある程度解っているのですが
「橘紋」 「並び鷹羽紋」 「三つ柏紋」 「丸に剣三つ柏紋」 「三つ鱗紋」 「寄懸り目結」
「寄懸目結」等でした。(まだまだ調査中です(p_-))
実は、お世話になっているお寺様の天井いっぱいに、各家々の家紋が施されているのです(^’^)
お寺様の天井の”ほんの一部”の写真です(..)
先日、お寺での法要の際に天井を見上げて調べたのですが(首が痛くなりました(@_@。)
やはり、家の集落には「橘紋」の家はかなり見受けられました。
しかし、どうしても解らないのがこちらの家紋で、この家紋を使用されている家々も集落にはかなりあったのです・・・?
が・・・・
何と言う家紋なのか、知識不足で、解りませんでした。
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今回のブログは『五木村の縁戚の方々と私の先祖が繋がる椎葉村』と言うタイトルで書きましたが
おそらく、私が調べている、謎に包まれた「親戚関係」は、今回のブログの内容が
深い霧に包まれた「根元」の一つではないのか?
と書き終わった今、考え始めています。
何か・・・・
壇ノ浦であったのではないでしょうか・・・・・
(あくまでも・・私の独り言です・・・)
2017/09/06 21:50 追記
家の宮原家、親戚の深水家、椎葉家、平川家のある、球磨郡久米郷旧宮原村について、後日、詳しく書かせて頂くつもりですので
本日は簡単に、ご紹介させて頂きます。
球磨郡久米郷旧宮原村
私の住む集落「宮麓」で天文十五年(1546年)相良氏の第16代当主「相良義滋」の時に
『肥後宮原銀山』が発見されました。
相良藩では遣明船「市木丸」を造船して、宮原銀山で採れた「銀」を財源及び商品とした日明貿易を行いました。
私の住む、旧宮原村宮麓地区は、”銀山のある村”であり、相良藩の日明貿易の本拠地でありました。
書籍「アジアのなかの戦国大名:西国の群雄と経営戦略 鹿毛敏夫氏 著」では
銀鉱石発見の際に歓喜した相良義滋。
相良義滋は「銀石現出」を「御 神慮」と位置付けて「家繁栄の心懸け」に励むよう子の相良晴広に伝え(諸篇の御 神慮疑い無く候の間、家繁栄の心懸け申し及ぶまでも無く候)その言葉通りに相良晴広は旧宮原村の中島霧島神社(宮原神社)と旧岡本村の大炊霧島神社の中興を行い、銀鉱石が現出した宮原地区の神社を敬い、相良家の家運をかけて、宮原銀山を開発した・・
と記されています。
上記にある『中島霧島神社(宮原神社)・銀鉱石が現出した宮原地区の神社を敬い、』
ここに書かれている神社が以前、ブログに絵図をアップした集落の神社様であります(..)。
旧宮原村の石高は 2640石でありました。(..)
ここに、椎葉のおじの言う 堅い絆の一族が住んでいました(..)